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Channel: 吉川和夫ブログ美術庵=諸国放浪記
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4月の美術展~風景編(8)では、宮城県の”鳴子峡”を描く

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4月、吉川和夫美術展~風景を描く(8)では、宮城県の名勝地”鳴子峡”を描きました。鳴子峡一帯は、落葉広葉樹林になっており、アカシデ、ミズナラ、ハウチワカエデなどが群生しています。宮城県を代表する紅葉の名所として知られています。
 
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4月、美術展~風景編(7)では、松島湾の”鐘島”を描く

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4月の吉川和夫美術館~風景を描く(7)では、日本三景の一つ松島湾に浮かぶ”鐘島"を描きました。
穴の中には、崩れた岩があり、波が入るとゴロン・ゴロンと音がするところから、鐘島と名付けられました。
 
 
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4月、美術展~風景編(6)では、松島湾の仁王島を描く

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4月の吉川和夫美術展~風景を描く(6)では、日本三景の一つ、松島湾に浮かぶ”仁王島”を描きました。
仁王島は、松島湾では、最も人気のある島です。
なお、松島湾には、260余りの島々があります。
 
 
 
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4月、美術展~風景編(5)では、松島湾の”福浦橋”を描く

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4月、吉川和夫美術展~風景を描く(5)では、日本三景の一つ、松島湾の”福浦橋”を描きました。福浦橋は、全長で252メートルあり、赤い色が一際目立つ美しい橋です。別名出会いの橋とも言われています。松島の風景に溶け込んだ趣きのある橋です。夜間にはライトアップが行われ、赤い部分が一際美しいです。
 
 
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4月、美術展~風景編(4)では、松島の”五大堂のある島”を描く

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4月の吉川和夫美術展~風景を描く(4)では、日本三景の一つ、「五大堂のある小島」を描きました。
五大堂は、伝承によれば、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされています。
 
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4月、美術展~風景編(3)では、青葉城址の”馬上の伊達政宗像”を描く

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4月の吉川和夫美術展~風景を描く(3)では、仙台市の青葉城址に建つ”馬上の伊達政宗像”を描きました。
馬に跨る甲冑姿の凛々しい伊達政宗像に逢える場所は、仙台城址(青葉城址)では、最も眺望の素晴らしい場所にあります。
 
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4月、吉川和夫美術展~風景を描く(2)では、青葉城祉の脇櫓を描く

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4月の吉川和夫美術展~風景を描く(2)では、仙台城址の”大手門脇櫓”を描きました。脇櫓は、大手門と共に1931年に国宝に指定されたが、大手門と共に戦災で焼失しました。1967年に民間の寄付により外観復元された建造物です。
 
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4月、吉川和夫美術展~風景を描く(1)では、仙台市の”定禅寺通り”を描く

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4月の吉川和夫美術館~風景を描く(1)では、仙台市の「定禅寺通り」を描きました。
定禅寺通りは、仙台市青葉区にある「杜の都・仙台」を象徴する並木道の一つです。仙台市で開催される都市イベントの会場となることが多くあります。
 
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5月、吉川和夫美術展~植物を描く~桜花

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5月の吉川和夫美術展~植物を描く~では、東京都の都花である「ソメイヨシノ=染井吉野」の桜花を描きました。
 
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  2015年制作 水彩/パステル 画用紙 6号F 

ソメイヨシノ(染井吉野、学名: Cerasus × yedoensis (Matsum.) とはエドヒガン系の桜と日本固有種のオオシマザクラの雑種の交配で生まれた日本産の園芸品種。遺伝子研究の結果、ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑してできた単一の樹を始源とするクローンであることが判明している。
 
日本では明治の中頃からサクラの中で圧倒的に多く植えられた品種であり、今日では、メディアなどで「桜が開花した」というときの「桜」はソメイヨシノ(の中の、気象台が定めるなどした特定の株)を意味するなど、
現代の観賞用のサクラの代表種である
 
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5月、吉川和夫美術展~人物を描く~クラーク博士像

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5月の吉川和夫美術展~人物を描く~では、Boys be ambitious♪の言葉を残した”クラーク博士像”を描きました。
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   2015年作 パステル/水彩 画用紙 6号F
 
ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日)は、アメリカ合衆国の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。
 札幌農学校(現北海道大学)初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした。日本ではクラーク博士として知られる。日本人から見るといわゆる「お雇い外国人」のひとりである。
 
 
次の写真は、サッポロ羊ヶ丘展望台のクラ-ク博士像です。

 
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5月、吉川和夫美術展~風景を描く~北海道

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5月の吉川和夫美術展~風景を描く~北海道の羊蹄山、JRニセコ駅の駅舎、北海道の廃校(洞爺湖町立花和小学校)、伊達市の貝塚古墳などを描きました。
 
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          羊蹄山=蝦夷富士
 
 
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    羊蹄山は、標高1898mの成層火山です。
    日本百名山に選定されています。
 
 

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上の写真は、ニセコ町にある有島記念館の前庭から撮影したものです。
 
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     北海道のJRニセコ駅の駅舎を描く
 
     
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ニセコ町の人口増加:
1920年(大正9年)から1940年(昭和15年)までは減少したが、戦後に一時増加する。1960年(昭和35年)から再び減少を始め、1980年(昭和55年)には1920年の半分以下にまで落ち込みその後、横ばい状態が続いていた。
 
2000年代半ばから子育て世代やリタイア後の移住者、外国人居住者により人口が微増している。2010年(平成22年)の国勢調査によると人口増加率は3.3%で、
北海道内では虻田郡京極町・河東郡音更町に次ぐ3番目の増加率となった。

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    上の写真は、JRニセコ駅の駅舎・全景です。
 
 
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北海道の廃校(洞爺湖町立花和小学校)を
描きました。
 
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北海道の小学校の数は、2016年には全国で2番目となっております。小学校1校あたりの生徒数は平均231.03人となっています。北海道の面積の大きさもあり2005年まで全国でも最も学校数の多いかったようです。
ところが都市への人口流出から2005年には東京都にその座を譲りました。人口による減少もさることながら減少の一途は他の都道府県と同じようです。
構成としては1957年頃は町立の学校が1,140校と非常に多かったですが、地方自治体の統廃合の結果現在では約400校までに落ち込んでいます。
その分市立校が増えたかというとそうでもなく、廃校になったものが多いことがわかります。
また学校数自体が多いにもかかわらず私立小学校が非常に少ないのも北海道の特徴といえます。
学校数の減少もさることながら小学生の減少はそれ以上となっており、全国でも9番目と学校数よりも順位が落ちてしまいます。人口の過疎化が徐々に進んでいるのです。
 
次の写真は、廃校になった「洞爺湖町立花和小学校」です。
 
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    北海道伊達市の”貝塚古墳”を描きました。
 
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  次の写真は、伊達市の北黄金貝塚古墳です。
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北海道と青森、岩手、秋田の4道県と関連する14市町は「北海道・北東北の縄文遺跡群」を世界文化遺産にするための取り組みを平成19年12月から行っています。伊達市にある国指定史跡「北黄金貝塚」もその中心的な遺跡として選ばれています。
 

北海道の「羊蹄山」を、油彩で描く

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北海道の羊蹄山=蝦夷富士を、
麻布生地=キャンバスの上に油彩で描きました。
      (2017年 6号F410x318mm)
 
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羊蹄山は、標高1,898mの成層火山です。
その姿は、日本一の山である富士山に似たその美しいシルエットから、「蝦夷富士」と呼ばれています。
そして、北海道の先住民族アイヌの人々がマチネシリ(女の山)と呼んでいます。この山は、女性の持つエネルギーを高める力があり、女性らしい気品を引き出してくれると言われています。
 

北海道の廃校=洞爺湖町立花和小学校を描く

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北海道を放浪旅すると、小学校や中学校の廃校が目立っています。いまだ立派な建造物ですが、1947年の学制改革による廃校や自治体の合併による廃校、過疎化を原因とする生徒数の激減による廃校(消滅)など、様々な要因で、廃校になった小学校や中学校が多数あります。北海道の小学校では700校を超えるほども廃校になっています。
 
私が、旅の途中で出会った廃校に、物思いに耽りながら、「洞爺湖町立花和小学校」を描きました。
 
 
  2017年作 キャンバス 油彩 6号F=410x318mm
 
 
 
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5月吉川和夫美術展~植物を描く~サクラソウ

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6月吉川和夫美術展~植物を描く~では、埼玉県の県花 ” サクラソウの花 ”を描きました。
 
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  2015年制作 水彩/パステル 画用紙 6号F

ソサクラソウ(桜草、学名:Primula sieboldii)はサクラソウ科サクラソウ属の多年草。日本のサクラソウ類の代表で、日本では北海道南部、本州、九州の高原や原野に分布し、朝鮮半島から中国東北部へかけても分布するが、野生の群落をみることはまれになっている。た埼玉県と大阪府の県(府)花に指定されている。
 
サクラソウ属植物は世界中に約400種あり、ホザキサクラソウ(Primula vialii) など一部を除くと花の形や草姿に極端な違いがないので、「サクラソウ」を総称とすることが多い。したがって同属の他種が「サクラソウ」と俗称されることがあり注意を要する。園芸店で「サクラソウ」として売られている植物としては西洋サクラソウ(P. polyanthus)、オトメザクラ(P. malacoides プリムラ・マラコイデス)、トキワザクラ(P. obconica プリムラ・オブコニカ)、などがあり、本種は少ない。
 

6月吉川和夫美術展~人物を描く~渋沢栄一氏像

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6月吉川和夫美術館~人物を描く~では、埼玉県出身の「日本資本主義の父・渋沢栄一氏像」を描きました

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渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。 「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
 郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。 栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。 明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
 1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。 栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
 栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。

      次の写真は、渋沢栄一の生家です。
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6月吉川和夫美術館~埼玉県の長瀞渓谷を描く

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6月吉川和夫美術展~風景を描く~では、埼玉県秩父地方にある長瀞渓谷と長瀞川下りを描きました。

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次の写真は、長瀞渓谷で、川下りに参加したときのものです。2016年10月に撮影した埼玉県秩父郡の長瀞の風景です。

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埼玉県の秩父神社の鳥居を描く

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埼玉県秩父市の秩父神社の鳥居を描きました。

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次の写真は、秩父神社です。
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埼玉県の秩父夜祭の曳山を描く

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埼玉県秩父市の夜祭りは、京都の祇園祭り、飛騨の高山祭りと共に、日本の「三大曳山祭り」と言われています。その曳山は豪華絢爛そのものです。ユネスコ世界無形文化遺産にも登録されています。
その曳山・屋台の一つを描きました。

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次の写真は、「秩父まつり館」の内外です。
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7月吉川和夫美術展~植物を描く~沖縄の県花である”デイゴの花”

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7月の吉川和夫美術展~植物を描く~では、沖縄県の県花である「デイゴの花」を描きました。

デイゴ(梯梧、Erythrina variegata)はマメ科の落葉高木。インドやマレー半島が原産。日本では沖縄県が北限とされている。春から初夏にかけて咲く赤い花が有名(ただし、毎年満開となるとの保証はないそうである)。沖縄県の県花でもある。デイコ、エリスリナともいう。


1967年(昭和42年)、県民の投票により「沖縄県の花」として選定された。デイゴが見事に咲くと、その年は台風の当たり年で、天災(干ばつ)に見舞われるという言い伝えがある(THE BOOMの「島唄」でも歌詞として書かれている)。なお、太平洋戦争末期の沖縄戦の時には、デイゴの花が沢山に咲いたと言われています。
また、デイゴの木は、沖縄では「やしきこーさー(屋敷壊さー)」とも呼ばれることもあるが、これは根の力が強く、家の近くに植えると根がのびて家を傾かせてしまうからであるという。

次の写真は、2017年4月に沖縄県を旅行中に見つけたデイゴの花木です。




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次の写真は、デイゴの木です。

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7月吉川和夫美術館~人物を描く~米国アップル社の創業者を描く

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7月の吉川和夫美術館~人物を描く~では、米国のIT産業であるアップル社の創業者「スティーブ・ジョブス氏像」を描きました。


先日、NHKのBS教養番組で、 米国アップル社のCEOだった、スティーブ・ジョブズ氏の事が報道されました。
そこで、ヤフー検索を通じて、彼の人生を研究しました。
彼は、米国Stanford大学の卒業式で、 自分の人生を語りました。Stay hungry, Stay foolish という言葉で、スピーチを締めくくりました。 私は、この言葉が大好きです。


次の写真は、その時のものです。
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スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(Steven Paul "Steve" Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家、資産家、作家、教育者。
アップル社の共同設立者の一人。アメリカ国家技術賞を受賞している。

略歴
1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅からスタートしたアップル社は、シリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。

1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時のあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いが社内を混乱させたとして、1985年にアップルから追放された。

アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、NeXTワークステーション (NeXTcube, NeXTstation) とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。

1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却すると同時に復帰、1997年には、iCEO(暫定CEO、Interim CEOの略)となる。同年には、不倶戴天のライバルとさえされていたマイクロソフトとの提携と、同社からの支援を得ることに成功し、また社内ではリストラを進めてアップル社の業績を回復させた。

WWDC07でのスティーブ・ジョブズ
2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。

iCEOに就任して以来、基本給与として、年1米ドルしか受け取っていなかったことで有名であり(実質的には無給与であるが、この1ドルという額は、居住地のカルフォルニア州法により、社会保障番号を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安い最高経営責任者」とも呼ばれた。しかし、無報酬ではなくアップルから莫大なストックオプションやビジネスジェット機などを得ている。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。

2011年10月5日、アップルはジョブズが死去したと発表した。別の報道では死因は膵癌に伴う呼吸停止と報道している。56歳没。
2012年2月11日、第54回グラミー賞で、特別功労賞の一つ「トラスティーズ賞」が授与された。
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