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Channel: 吉川和夫ブログ美術庵=諸国放浪記
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汎美・秋季展が東京都美術館で開催中です。

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東京都美術館(上野公園内)で、
9月28日(木)~10月5日(木)の期間、
「汎美・秋季展」が開催中です。
(休館日:10月2日【木】)



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吉川和夫の作品は、次の油彩画を出品しています。
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東京都美術館における汎美・秋季展の様子

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2017年の汎美・秋季展は、9月28日~10月5日の期間で、東京都美術館において開催されました。
その展覧会の様子の一部分を紹介いたします。
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吉川和夫(キッカワ カズオ)のプロフィール

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吉川和夫(キッカワ カズオ)のプロフィール

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○ 誕生年:昭和八年(1933年)
  ~ 高齢と共に老化現象は可也の速さで進行を続けています。

○ 出生地:島根県  浜田市
  ~ 日本海に面した聚落で生れ育ち、18歳で上京しました。   

○ 現住所:東京都  町田市
   ~ 郊外の静かな住宅街に38年間住み続けています。

○ 学歴:慶応義塾大学卒業 (専門:アメリカ近現代史)
   ~ 戦後の激動時代、心身共に「自由」と「苦悶」の青春でした。

○ 外遊:海外諸国151ヶ国(通算延べ数で248ヶ国)
   ~ 放浪体験を通じて「時空を超える美学」を勉強しています。

○ 職業:無職=(放浪悠遊画人)
   ~ 六十歳・会社退職後、諸国を放浪し悠遊と暮らしています。


○ 趣味:数学の学習
  ~ 一次・二次・連立方程式解き方の学習を楽しんでいます。

○ 画歴:弐拾数年有余
  ~ 美術の勉強をしながら、日々、生きる喜びを感じています。  

○ 師匠:我以外皆我師
  ~ 尊敬する画家が多く、特定の師匠を持たずの独学です。

○ 公募美術展:34回出品展示
   ~ 絵描きを楽しみながら、公募展に出品展示しています。

○ 所属美術団体:汎美術協会、町田市美術協会
   ~ 異なる流派の多数の画友と楽しく美術談義しています。 
       
○ 個展:六回開催で打切り 
   ~ 来場者が少ないうえに、高齢のために対応出来ないのです。

11月吉川和夫美術展、「梅の花」を描く

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11月、吉川和夫美術展~植物を描く~では、福岡県の県花「梅の花」を描きました。


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(2017年制作 水彩/パステル 画用紙 6号F)


昭和29年3月19日、福岡県の県の花として決まったのは「うめ」です。NHKが植物友の会などと共催して、放送開始30周年を記念して行った、全国都道府県の「郷土の花」を公募によって決める事業がきっかけとなって、菅原道真公を祀った太宰府天満宮の飛梅の伝説や、早春に境内に美しく香り高い一重咲きや八重咲きの花を咲かせる約200種類、約6,000本の白梅、紅梅の梅の木々にちなんで決定しました。

日本有数の梅の名所として親しまれてきたことから、昭和41年に県章はこの花を形どったものに決まりました。太宰府天満宮には、樹齢1000年を超えるとされる白梅があって、どの梅よりも先に咲き始めるといわれています。この木には、平安時代、菅原道真が政争に敗れて遠く大宰府に左遷される際に、愛でてきた桜の木、松の木、梅の木のうち、この木だけが辿り着いたという「飛梅の伝説」の木とされて、菅原道真が自ら植えたものともいわれています。

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11月吉川和夫美術展~歌手、夏川りみ氏像を描く

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11月吉川和夫美術展~人物を描く~では、
沖縄県出身の歌手である”夏川りみ氏像”を描きました。


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2017年制作 パステル/水彩 画用紙 6号F )

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夏川の歌声には人を癒す力があると讃えられる。
夏川の伴奏を数多く務めた吉川忠英は彼女の歌声を
「まさに南国の夜にキラメく大きな星の様に、強く、やさしく、あたたかく、僕の心をくすぐってゆく」と評している。古謝美佐子のカバー曲「童神」はいまや夏川のレパートリーとして定着し、「胎教にいい」との評判も呼んでいる。

「涙そうそう」を歌うようになったのは沖縄サミットの関連イベントで同郷のBEGINがこの曲を演奏しているのを偶然テレビで見たことに端を発する。この曲に魅了された夏川は自分で歌いたいと思い、BEGINのライブに行った際に楽屋を訪ね、歌わせて欲しいと申し出た。「あらためて別の曲を作ってあげる」と「あなたの風」を提供されたが、「涙そうそう」を諦め切れなかった彼女はさらに懇願を続け、カバーへの同意を取りつけた。夏川はこの曲に出会って全てが変わったと語る。「やっと、自分らしさが分かって自信が出てきた」という。

「涙そうそう」のヒットを最も喜んだのは幼い頃から歌の手ほどきをしてくれた父だった。夏川自身は幼い頃は中森明菜などのポップスを歌いたかったが、父に歌わされたのはいつも演歌だった。嫌々歌っていたこともあった夏川だが、今は「演歌で歌の基礎をしっかり教えてくれたからこそ、今どんな歌でも歌える」と感謝していると語る。
自ら三線、琉笛、三板を演奏しながら歌うこともある。三線は「涙そうそう」から弾き始めた。

11月吉川和夫美術展~沖縄のユネスコ遺産「勝連城跡」を描く

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11月吉川和夫美術展~風景を描く~では、
沖縄県のユネスコ世界遺産” 勝連城跡 ”を描きました。

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(水彩/パステル、画用紙、6号F410x318mm)


勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾である。阿麻和利の城として知られている。

概要
城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。

13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。

城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろそうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した。

城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰にともない即日、日本国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。登録されたグスク(城)の中では最も築城年代が古いグスクとされている。

2010年(平成22年)、沖縄本島近海地震で城壁の一部が崩落する被害を受けた。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(200番)に選定された。


 
次の写真は、2017年4月2日に撮影した沖縄県の” 勝連城跡 ”の風景です。

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沖縄県の”中村家住宅”を描く

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沖縄県の” 中村家住宅 ”を描きました。

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(水彩/パステル、画用紙、6号F410x318mm)


中村家住宅は、沖縄県中頭郡北中城村にある歴史的建造物(民家)。
国の重要文化財に指定されている。

概要
中村家の祖先に当たる賀氏(がうじ)は豪農であり、琉球王国の官人である護佐丸が首里王府の命に従い1440年に読谷から中城城に移った時に共に移り、その近くに居を構えた。護佐丸が阿麻和利に滅ぼされた後は不遇を託つ時代が続いたが、1720年頃には地頭代[1](本土で言うところの庄屋)に任ぜられるまでになった。現在の屋敷は主屋(ウフヤ(母屋)・トゥングワ(台所))・アシャギ(離れ座敷)・高倉(籾倉)・フール(豚小屋兼便所)・メーヌヤー(前の屋・家畜小屋兼納屋)・ヒンプン(目隠し塀)・カー(井戸)で構成されており、周囲はフクギと石垣で囲まれている。

屋根の上には魔除けのシーサーが鎮座している。瓦は赤瓦が使用されており、漆喰でしっかりと固められている。なお、明治以前は竹瓦が葺かれていた(琉球王国の時代には、瓦は士族階級以上しか認められていなかったため。農民階級である中村家が瓦を用いるのを認められたのは明治も中頃になってからである)。琉球石灰岩で出来た石垣や防風林としてのフクギ、漆喰で塗り固められた重い瓦はいずれも台風に備えるための工夫である。また、屋根はアマハジ(雨端)という、屋根が庇のように出張った構造になっている。これは強い日差しと雨を避けるためのものである。

沖縄戦の戦禍を免れた貴重な家屋であることから、沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還(沖縄返還)された当日の1972年(昭和47年)5月15日に、主屋(ウフヤ及びトゥングワ)、アシャギ、高倉(籾蔵)、メーヌヤー(前の屋)、フールが、沖縄本島の民家では初めて国の重要文化財に指定された。なお、返還以前の1956年(昭和31年)には琉球政府から重要文化財の指定がなされている。

中村家住宅は戦前の沖縄の住居建築の特色を全て備えている建物です。沖縄本島内でこのように屋敷構えがそっくり残っている例はきわめて珍しく、当時の上層農家の生活を知る上にも、貴重な遺構であるということで、昭和三一年に琉球政府から、昭和四七年に日本政府によって国の重要文化財に指定されました。


次の写真は、2017年3月31日に撮影した" 中村家住宅 ”の風景です。

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沖縄県の浦添市美術館を描く

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沖縄県の浦添市美術館を描きました。

(水彩/パステル、画用紙、6号F)

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浦添市美術館(うらそえしびじゅつかん)は沖縄県浦添市にある美術館である。日本初の漆芸専門美術館、沖縄初の公立美術館として1990年(平成2年)に設立され、琉球漆器をコレクションとしている。



次の写真は、2017年4月5日に撮影した浦添市美術館です。
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12月吉川和夫美術展~植物・ウンゼンツツジの花を描く

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12月の吉川和夫美術展~植物を描くでは、長崎県の県花であるウンゼンツツジを描きました。


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ウンゼンツツジの名前について
本種の名は長崎県の雲仙岳に由来するとされる。この名が使われるようになったのは明治半ばである。それ以前、江戸末期にはコメツツジと呼ばれていたという。ところが、雲仙岳には本種は分布しない。他方、雲仙岳には美しいツツジがあり、これを島原藩はウンゼンツツジと呼んで保護してきた。この種はその後長崎県の県花に指定された。しかし、この種を牧野富太郎はミヤマキリシマ R. kiusianum の名で新種記載してしまった。これが標準和名となったため、現在では長崎県の県花は「ウンゼンツツジ(ミヤマキリシマ)」と表示されている。牧野はこの点について、雲仙岳に産しない点を指摘しながらも「古くから用いられた名なので改めない」としている。

次の写真は、ウンゼンツツジの花です。
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12月吉川和夫美術展~人物・孔子像を描く

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12月吉川和夫美術展~人物を描く~では、古代中国の思想家である孔子像を描きました。

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孔子(紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。

有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

次の写真は、長崎孔子廟大成殿です。
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12月吉川和夫美術展~沖縄の世界遺産”識名園”を描く

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12月吉川和夫美術展~風景を描く~では、沖縄のユネスコ世界遺産「識名園」を描きました。

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識名園(しきなえん)は沖縄県那覇市識名にある琉球庭園の一つです。

識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれた。造園は琉球の第二尚氏王朝、尚穆(在位・1752年 - 1795年)の時代に始まったと言われるが定かではない。完成は尚温の時代の1799年。

中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されている。完成当時は中国皇帝からの使者(冊封使)をもてなす、現在でいう迎賓館として使われた。「勧耕台」と称する展望台があるが、海を望むことはできない。これは琉球をより大きな国に見せるためともいわれている。

第二次世界大戦で園内のほとんどの建造物が破壊されたため、現在見られるものは復元(工期:1975~1995年)である。

1941年、国の名勝に指定され、戦禍で壊滅後、1976年に再指定。2000年には国の特別名勝に指定され、同年12月にユネスコの世界遺産に登録。

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2017年4月1日に、世界遺産「識名園」を訪問しました。次の写真は、その時に撮影したものです。

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沖縄のユネスコ世界遺産「座喜味城跡」描く

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2017年4月3日、沖縄県のユネスコ世界遺産” 座喜味城跡 ”を訪問しました。座喜味城(ざきみぐすく・ざきみじょう)沖縄県中頭郡読谷村にあったグスク(御城)の城趾です。

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(水彩/パステル、画用紙、6号F410x318mm)



座喜味城の歴史
1416年から1422年に読谷山の按司護佐丸(ごさまる)が築城したとされている。城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされる。

沖縄戦前には日本軍の砲台や、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたため一部の城壁が破壊されたが、城壁の復元が行われた。

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定されたが、米軍基地として使用されていた部分は指定し得なかったため、返還を機に追加指定された。ただし、現状変更のあった部分(西側道路部分)についてはのちに指定を解除している。

2000年11月には首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は座喜味城跡)。城内で演劇が行われるなど、広く利用されている。城跡の高台から西側を望むと残波岬や、晴れた日には慶良間諸島も眺めることができる。

2017年(平成29年)、続日本100名城(199番)に選定された。

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沖縄の「座喜味城跡」の写真です ↓

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沖縄の景勝地”万座毛”を描く

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沖縄の景勝地「万座毛」を描きました。

沖縄本島北部の恩納村にある万座毛(まんざもう)は、
「万人も座する草原」(毛とは草原のこと)琉球王朝時代、尚敬王が「万人を座するに足る」と賞賛したことが
名の由来と言われています。

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次の写真は、万座毛のある恩納村の風景です


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1月吉川和夫美術展~クスの花を描く

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2018年1月の吉川和夫美術展~植物を描く~では、佐賀県の県花 ” クスの花 ”を描きました。

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  2017年制作 水彩/パステル 画用紙 6号F


佐賀県の県花は「クスの花」です。
昭和29年3月に、県花として指定されました。
クスの花が咲くのは5月です。
幹の周囲が10m以上の巨木になることが珍しくない樹木でありながら、6枚の白色や淡い黄色の花びらからなる花はとっても小さくて、3mmから4mm程度しかないのです。
佐賀県武雄市には、樹齢3000年以上といわれる国指定の天然記念物「川古(かわご)の大クス」があります。その大きさは、高さ25m、幹回りが21mもあります。武雄市には他にも樹齢3000年を越す、武雄神社の御神木の武雄の大楠や、落雷で幹の上部が欠けているものの堂々とした風格を残す塚崎の大楠などがあります。

次の写真は、「クスの花」です。
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1月吉川和夫美術展~ノーベル平和賞の金大中氏像を描く

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2018年1月吉川和夫美術展~人物を描く~では、
ノーベル平和賞を受賞した韓国の”金大中氏像”を描きました。

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2017年制作 パステル/水彩 画用紙 6号F


次の写真は、金大中氏です
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金大中氏の対日関係
金大中は併合時代の統治下で日本語教育を受けており、戦後日本での滞在も長く、流暢な日本語を話すことができたため、非公式な場における日本のマスコミ向けのインタビューでは日本語で応じる事が多かった。

盧武鉉、江沢民のように強固な反日姿勢はとっておらず、二度命を救われている日本に対しても寛容な立場で、潜在的親日派とされているが、国の事情により、親日に踏み込んだ発言まではしなかった。

ただし、小泉純一郎の靖国神社参拝問題には反対の姿勢であった。また前述の金大中事件がKCIAの犯行と判明した際には、当時の首相田中角栄等を角栄の没後であったのにも拘わらず、痛烈に批判している
<br>(ただし、日本語訳版も出た大統領就任直後に出版された自伝『死線を越えて』では「金大中事件の際には日本の皆様には世話になった。」と日本に対する謝意は表明している)。

大統領就任後の来日時には日本統治時代の恩師を訪問し、「豊田です。」と日本語で創氏改名時の苗字を名乗ったため、一部から批判を浴びた。

1998年の来日に先立って、政府として天皇を表す「日王」の呼称を取り止め、「天皇」を使用することを公式に宣言。また、来日前から「過去の清算」に強い意欲を持っていたとされる。皇居での晩餐会での天皇の言葉に対する答辞では、植民地支配など過去の歴史の傷には触れなかった。愛子内親王の誕生に際しては「皇室と国民が待ちこがれた皇孫が誕生した事を、韓国国民とともに心よりお祝いします。皇室がこの度の慶事を機に、一層繁栄することを確信します」との祝電を送った。また、金大中氏は日本の常任理事国入りに対する韓国国内の支持を求めていた。

映画や音楽などの日本文化を受容することも表明。日韓ワールドカップも共同開催するなど、『韓国社会の“独島愛国主義”を拡大・「歴史の正しい立て直し」として総督府としてより、韓国国会として長く使われた後に博物館としていた旧朝鮮総督府を独立50周年記念で爆破解体・慰安婦問題では河野談話やアジア女性基金による解決策を軽視で問題の長期化させるなど反日愛国大衆迎合主義の大統領だったと日本には苦い思いが残る人』と称される金泳三より民間交流で日韓関係を好転させ、金大中時代が過去最も良好な外交関係であった。






























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1月吉川和夫美術展~高麗神社の鳥居を描く

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2018年1月の吉川和夫美術展~風景を描く~では、
日本国の皇室に所縁ある”高麗(こま)神社の鳥居”を描きました。

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高麗(こま)神社は、埼玉県日高市新堀833番地にあります。

(水彩/パステル、画用紙、6号F410x318mm)


次の写真は、高麗神社(こまじんじゃ)の拝殿です。
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次の写真は、高麗神社ご参拝の両陛下の御姿です。

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2017年(平成29年)9月20日・21日に、今上天皇、皇后が、在位中8度目の私的旅行として日高市や深谷市の渋沢栄一記念館に行幸啓し、その際に高麗神社に参拝しました。天皇の参拝(親拝)は創建以来初めてで、韓国でも大々的に報じられました。1976年(昭和51年)には皇太子徳仁親王も参拝しています。

昔、668年に唐・新羅に滅ぼされ亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を朝廷はこの地に移住させました。703年には高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっています。高麗若光が「玄武若光」と同一人物ならば、高句麗王族の一人として王姓を認められたということになります。この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたものと推定されています(新編『埼玉県史』)。


高麗神社は、この高麗若光を祭っている。神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた。また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号は、明治以降は高麗神社と称されるようになりました。



入口付近の敷地には、2005年10月23日に在日本大韓民国民団(民団)から寄贈された花崗岩製の将軍標がある。これは、1992年に設置された木製のものが破損し腐食したことから再寄贈されたものです。また、駐日大韓民国大使らの参拝もあります。

次の写真は将軍標です。
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次の写真は、2016年10月23日に、私が撮影した日高市の”高麗神社”の風景です。

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埼玉県の高麗駅を描く

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埼玉県の高麗駅(こまえき)です。
西武鉄道池袋線の駅です。
高麗駅(こまえき)は、埼玉県日高市武蔵台一丁目にあります。

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(水彩/パステル、画用紙、6号F410x318mm)




西武池袋線高麗駅で下車してみると、駅前に大きなポールが立っていました。
高麗駅で下車した目的は、日高市にある高麗神社に参拝し、近年になって観光地として有名になった巾着田の風景をスケッチすることでした。

2016年10月23日に、高麗駅の写真撮影しました。
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埼玉県の巾着田にある水車小屋を描く

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埼玉県日高市の巾着田にある”水車小屋”をスケッチしました。

(水彩/パステル、画用紙、6号F410x318mm)

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埼玉県日高市にある巾着田を写真撮影しました。
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巾着田の概要
地元では川原田と呼ばれている。8世紀にこの付近に移り住んだ高句麗からの渡来人が、大きく湾曲した高麗川を利用してこの地を開墾して田を作り、稲作を伝えたと言われている。

昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ヘクタール(17万平方メートル)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに草藪の草刈りをしたところ、大規模な曼珠沙華の群生が見られるようになり、報道が始まったことで、有名スポットとなった。河川の蛇行や氾濫により上流部から土砂とともに球根が流れ着いたものと考えられている。1996年には日本一の木製トラス橋「あいあい橋」が完成した。グラウンドや駐車場など観光地として設備されるようになった。

謹賀新年

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謹賀新年 平成三十年元旦を迎えました。
新しい年を迎え皆々様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
本年も宜しくお願い申し上げます。       吉川和夫


さて、私は、今年、八十五歳を迎えます。
私は老いぼれになりましたが、心身共に元気で生活しております。
昨年はライフワークの絵描きと大好きな旅行などを楽しみました。

私の美術活動は
東京六本木の国立新美術館、上野恩賜公園の東京都美術館、
町田市立国際版画美術館、町田市民ホールなどの
六会場の公募展に出品し展示しました。
今年も、昨年同様に公募展を主に美術活動する計画でおります。

昨年の海外旅行は、
中国の上海や蘇州など、台湾の台北や基隆などを旅しました。
今迄に世界の独立国151ヶ国を旅しました。
リピートで旅した事を数にすれば、累計で250ヶ国を旅しました。

国内旅行は
北海道に9回目、沖縄に5回目の旅をしました。
そして、静岡、埼玉、長野、山梨などの
近隣県の美術館の見学や観光地などを旅しました。

今年の旅行計画は、
昨年と同様に、気の向くままに、足の向くままに、
前へ進んで出掛けたいと思っています。

今年も、よろしくご交誼のほどを重ねてお願い申しあげます。

2月吉川和夫美術展~植物・「モモの花」を描きました。

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2月吉川和夫美術展~植物を描く~では、岡山県の県花「モモの花」を描きました。

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2017年制作 水彩/パステル 画用紙 6号F

岡山県の県花は「モモの花」です。
晴れの日の日数が全国1位の岡山県です。
明治の初め頃から始まった県内での桃の果実栽培は、特に白桃が今では県を代表する特産物のひとつです。桃太郎にまつわる伝説などもあって昭和25年ごろから県の花として、とても親しまれています。


写真は、「モモの花」です。
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