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Channel: 吉川和夫ブログ美術庵=諸国放浪記
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汎美展2015の展示風景

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「汎美展2015」は、3月4日(水)~16日(月)、
国立新美術館で、開催中です。
吉川和夫の作品が出品・展示されていますので、
ご案内申し上げます。
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↓吉川和夫作品「諸国放浪記」の前で、友人と共に↓
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画家・堀文子女史の言葉

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96歳になる画家・堀文子女史の言葉




息の絶えるまで感動していたい。

私の中に潜む未知の能力がまだ芽を吹いてないんじゃないかと、
諦めきれないでいるんです。

奢らず、誇らず、羨まず、欲を捨て、
時流をよそに脱俗を夢みて、
私は一所不在の旅を続けてきた。

自分の無能を恥じ、己との一騎打ちに終始し、
知識を退け、経験に頼らず、
心を空にして日々の感動を全身で受けたいと心掛けた。

肩書きを求めず、ただ一度の一生を美にひれ伏す、
何者でもない者として送ることを志してきた。

人を見る時も本能で、好きか嫌いかで、損得では決めません。
地位や名誉、肩書きなんて移ろいやすいもので、
それに振り回されないようにすることです。

恥を笑われることの心配をしているより、折角生きているのだから
したいことをしたいと思います。もう時間は残りすくないのです。

一生は一回しかないんですよ。

「旅はひとり」と言う信条に従って、
言葉も出来ぬのに、海外での一人旅を続けてきた。

主張せず、押し付けもせず、
雲や水のように形を求めず、行方もしれない絵。
修練や努力も役立たず、定義の仕様もない。

「絵とは?」年とともに益々その意味も効用も解らなくなる、この原始的行為。
言葉の助けも借りず、絵は通訳なしに時空を超えて、人の感性と交信することができ、
その働きは自由この上ない。

それに耐えるだけの体力と気力がないと、真剣に遊ぶことも出来ない。

吹雪となって花は散っていった。
すべてが夢か幻だったように。
どんなに惜しんでも、時の流れのなかに
かき消えていかねばならぬ花の命のはかなさを、
私達は己の行く末の姿として見据えているのではないか。

生きるものはやがて死に、会うものは別れ、
財宝も名利も仮の世の一時の驕りであることが
否応なく見えて来る今日この頃である。

此の先、どんなことに驚き熱中するのか。
私の中の未知の何かが芽を吹くかもしれないと、
これからの初体験に期待がわく、
私にはもう老年に甘えている暇などないのだ。

4月吉川和夫ブログ美術館~動物・ハイエナを描く

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4月吉川和夫ブログ美術館~動物を描く~では、アフリカ大陸に生息する ハイエナ を描きました。↓
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生態
 
草原などに生息する。夜行性。単独かペアで生活する個体群もあれば、何十頭からなる群れ(クラン)を形成し複数のクランを渡り歩いたり新しくクランを作る個体群もいる。他個体と遭遇すると頭部と尾が互い違いになるように並び片足を上げて、性器の臭いをかいだり舐める。よく鳴き声をあげ、12種類の鳴き声を使い分けていると考えられている。
食性は動物食で、主に体重20キログラム以上の哺乳類を食べるが鳥類、爬虫類、魚類、昆虫、動物の死骸などを食べる。主に狩りを行って獲物を食べるが、他の動物が倒した獲物も奪う。倒した獲物の一部を後で食べたり、水中や泥中に貯蔵するために運搬することもある。
 
次の写真は、アフリカ・ハイエナです。↓
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4月吉川和夫ブログ美術館~人物・紫式部を描く

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4月吉川和夫ブログ美術館~人物を描く~では、源氏物語の作者である”紫式部像”を描きました。
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紫式部(生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家、歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
 
屈指の学者、詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。夫の死後、召し出されて一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した。
 
 
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4月吉川和夫ブログ美術館~キリバス共和国の風景を描く

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4月吉川和夫ブログ美術館~風景を描く~では、南太平洋に浮かぶ島国、キリバス共和国を描きました。
 
キリバス共和国は太平洋上に位置するギルバート諸島フェニックス諸島、そしてライン諸島の一部等を領土とする国家で、イギリス連邦加盟国である。キリバスは33の環礁からなり、それらは赤道付近に350万km²にも亘って散らばっている。そのために世界第3位に相当する排他的経済水域を有している(但し陸地が少なく領海や接続水域も少ない為、これらを含めると15位にも入らない)。世界で最も早く日付が変わる国でもある
 
次の絵は、2014年12月に訪問した時の”キリバス共和国の国会議事堂”を描いたものです。
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2014年12月に、キリバス共和国の国会議事堂を撮影しました。
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やがて水没するキリバス国の建物を描く

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やがて水没すると言われるキリバス国の”集会所”を描きました。そして、キリバス国の建物を写真撮影しました。
 
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キリバスには、住民のための集会所の建物が、各地に散在しています。
2014年12月に訪問した時に、撮影した”集会所”の建物です。
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やがて、水没すると言われるキリバスの民家を撮影しました。
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 キリバスは、赤道直下の33の島から成る国です。排他的経済水域は世界第3位(!)なのですが、なんせ陸地が海抜60cm~1m程度の環礁ばかりで、温暖化の影響をモロに被ってます。
「海面上昇で国土が沈没する前になんとかしよう」と、政府は前例のない大胆な行動に出ました。2000km近くも遠く離れた、まったくの異国のフィジーに22平方kmの土地を購入したのです。
キリバスは将来の移住先として、数年前からフィジー国に目をつけていました。何度もお願いしてやっとOKが出て、今年、フィジーで2番目に大きな島の耕地の1区画を877万ドル(約9億円)で購入することで合意に達したのであります。キリバスの低地は海水を冠って農作物がやられてしまったので、当座はこの耕地でキリバス国民の食料の作物を生育します。
キリバスはあと30年ぐらいで居住不能になるとの予想もあります(海面上昇で国土が浸水し、淡水の地下水が海水にやられてしまう)。将来的にはキリバス国民約10万人の移住先も必要です。フィジー以外にも、ニュージーランドにも移住を認めるよう働きかけています。
国土水没の危機で移住先が必要な国はキリバスだけじゃありません。モルディブ、ツバル、マーシャル諸島…いずれも海抜が低く、温暖化の影響を真っ先に被ります。国連は「こうした国々では全国民が国を失うだろう」と報告しています。気象変動に国境なし。
 

キリバスは、2600人の日本軍兵士が玉砕した島、戦場跡を描く

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キリバス国で、2600人の日本国兵士が玉砕した戦場を訪ねて、”戦場跡”を絵に描き、写真撮影もしました。
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キリバスの歴史と住民、国旗を描く

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キリバスの歴史
先住民は、約2000年前西方からカヌーに乗ってやってきたミクロネシア系の人々であった。最初の来航したヨーロッパ人はスペイン人航海家で1537年にクリスマス島(現キリティマティ島)を、望見した。1777年にはイギリス人のジェイムズ・クックが、来島し、19世紀初めからヨーロッパ人による経済活動が、始まった。 タラワの戦い(1943年) 1892年から、ギルバート諸島は隣のエリス諸島と共にイギリスの保護領となった。1916年には植民地となり、1971年に自治領となった。
第二次世界大戦中の1941年に大日本帝国に占領され、後に一部の島は要塞化された。1943年よりアメリカ軍との間に、ギルバート・マーシャル諸島の戦いといった激しい戦闘が行なわれた。
1956 - 1962年、ライン諸島のクリスマス島がイギリス・アメリカ両国の核実験場とされた。 1978年にエリス諸島はツバルとしてイギリスから独立した。1979年にキリバスが独立した。独立の際、アメリカはほとんど無人のフェニックス諸島および3つの島を除くライン諸島すべての所有権を放棄し、それぞれキリバスの領土となった。
 
 

次に、キリバス共和国の住民を写真撮影しました。
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次の絵は、キルギス共和国の国旗を描いたものです。
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5月吉川和夫ブログ美術館~動物アフリカハゲコウを描く

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2015年5月の吉川和夫ブログ美術館~動物を描く~では、アフリカハゲコウを描きました。
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アフリカハゲコウは、コウノトリ科の大型渉禽類の一種。原産地は、和名のとおりアフリカである。 サハラ砂漠以南のアフリカ全域に生息。水辺でも内陸でも活動し、人間の居住地域近辺(とくにゴミ捨て場)でもふつうに見られる。
生態は、コウノトリ科の他種と同様に、群れで行動し、繁殖期にはコロニーを形成する。地域差があるがおもに乾季(水場が干上がっていくにつれ餌が手に入りやすくなる)に樹上に木の枝で作った巣をかけ、通常2個から3個の卵を産む。親鳥は交代で卵を温め、29日から31日で孵化する。ひなは、生まれてから95日から115日の間、両親が巣の床に吐き戻して与える餌を食べて成長する。性成熟には4年以上かかり、寿命は25年以上である。飼育環境では41年を越えた記録がある。

これもまたコウノトリ科の他種と同様に鳴き声をあまりあげないが、クラッタリングによって求愛などのディスプレイを行う。同時に喉袋も使ってさまざまな音を立てる。
 
アフリカハゲコウは頻繁に屍肉を漁るが、同様の食性を持つハゲワシと同じように、頭から頸にかけて裸出することでこれに適応している。仮に羽毛が生えていたとしたら、大型の動物の屍骸に首を突っ込んだりすると血液などの体液によってすぐに羽毛が固まってしまうだろうが、裸出していれば清潔に保ちやすい。屍骸を漁るときにはハゲワシと一緒になることがほとんどだが、鉤状の嘴先を持つハゲワシの方が屍肉を引き裂くには有利であるため、いったん屍骸から離れ、ハゲワシが肉を取りこぼしたところをさらったり、直接奪い取ったり、あるいは食事を終えるまで待ったりする。
 
屍骸の他、他の動物の食べ残し、糞便も食べる。また、魚、カエル、昆虫、小型の哺乳類やワニの幼生を捕食したり、その卵を食べることもある。
ときには他の鳥を捕らえることもあり、獲物はコウヨウチョウの幼鳥、ハト、ペリカン、ウのひなはおろか、フラミンゴにまで及ぶ。繁殖期になると、親鳥は屍肉食を控え、ひなの生育に必要な生きた獲物を捕らえるようになる。
 
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5月吉川和夫ブログ美術館~人物・源頼朝像を描く

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5月吉川和夫ブログ美術館~人物”源頼朝像”描きました。
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源頼朝は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、
鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。
 
河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。
伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。
弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、
諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。
建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
 
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。
この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令・江戸開城まで
足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。
 
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5月吉川和夫ブログ美術館~風景・南太平洋の島国ツバルを描く

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2015年05月01日発表の吉川和夫ブログ美術館の風景画は、南太平洋の島国、ツバル国の”フナフティ島”を描きました。
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フナフティ珊瑚礁群を上空から見たものです。
画面の中央部右にある斜め直線(黒棒)は、
フナフティ国際空港1500mの滑走路です。
 

次の写真は、フナフティ島の1500mの滑走路のある場所を撮影したものです。
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次の地図は、フナフティ島の1500mの滑走路のある場所を描いたものです。
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ツバル国の”フナフティ島を海上から見た風景”を描きました。
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ツバルは、オセアニアにある国家。首都はフナフティ。
南太平洋のエリス諸島に位置する島国です。
英連邦加盟国の一つであり、英連邦王国の一国たる立憲君主制国家。
独立国としてはバチカンの次に人口が少ないミニ国家の一つです。
海抜が最高でも5mと低いため、海面が上昇したり、地盤沈下がおこったりすれば、国の存在そのものが脅かされることになります。


次の写真は、2014年12月、ツバル国フナフティ島の海岸風景を撮影したものです。
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南太平洋の島国、ツバルの国会議事堂を描く

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ツバル国の”国会議事堂”を描きました。
 
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ツバルに人類が到達したのは
紀元前のことと考えられる。
トンガやサモアなど西ポリネシアから
航海カヌーでやってきたポリネシア人
あるいはラピタ人がこの島々の最初の居住者である。
ヨーロッパ人が訪れたのは、
1568年にスペインから来た
アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ
(Alvaro de Mendaña de Neira) が最初である。
植民は行われなかったが、
奴隷貿易業者や捕鯨船員などが
しばしば訪れていた。

1850年から1875年に、
住民は労働者としてハワイやタヒチ、
ペルーなどに強制連行された。
そのため諸島の人口は急激に減少した。

ツバルは、1892年にエリス諸島という名前で、
イギリスの保護領のギルバートおよび
エリス諸島の一部になった。
1915年に、北部ギルバート諸島(現キリバス)
とともに
イギリスの植民地ギルバート・エリスとなった。
1974年に、植民地内の人種の違いから、
ポリネシア人の多いエリス諸島は
ミクロネシア人の多いギルバート諸島
(後のキリバス)との分離を投票で決めた。
そしてエリス諸島は、
ツバルという名でイギリスの植民地として分離した。

1978年10月1日、イギリス連邦の一員かつ
英連邦王国として独立が認められた。
 

次の写真は、ツバル国のフナフティ国際空港を撮影したものです。
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左に見える黄色の屋根の建物は、国会議事堂です。
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次の写真は、ツバル国の政府庁舎を撮影したものです。
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 次の写真は、ツバルの警察署を撮影しました。
 
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次の写真は、ツバルの銀行を撮影しました。
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 次に、ツバル国で、唯一つあるホテルを撮影しました。
ほかの宿泊所には、民宿とホステルがあります。
 
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次の写真は、ガソリンとLPガスを売る店です。
 
 
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 次の写真は、一般住宅です。
 
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ツバル国フナフティ島で、働く住民を描きました。

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ツバル国のフナフティ島で、働く住民を描きました。
輸出用の海藻を袋に詰めている場面です。
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次の写真は、2014年12月、ツバル国の住民を撮影したものです。
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こちらの女性は、米国人の旅行者です。
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こちらの男性は、日本のJICAの人です。
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6月吉川和夫ブログ美術館~動物ハゲワシを描く

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6月吉川和夫ブログ美術館~動物ハゲワシを描く~
 
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ハゲワシ(禿鷲)は、鳥類タカ目タカ科のうち死肉を主な餌とする一群の種の総称である
アフリカハゲワシは、コシジロハゲワシと呼ばれ、アフリカのサハラ砂漠以南に住んでいます。
数百メートルの上空を飛んで大型哺乳類の死骸を探して、その肉を食べます。
全長は80~110cm。絶滅危惧種。
 
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6月吉川和夫ブログ美術館~人物・北条時宗像を描く

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6月の吉川和夫ブログ美術館”人物を描く”では、昔むかし、元寇と戦った英雄・北条時宗像を描きました。
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北条時宗(1251~1284)は、五代執権・北条時頼の嫡男として建長三年(1251)5月15日に生まれた。
得宗の子である時宗には、生まれながらにして強い期待が集まっていた。
九歳で小侍所別当、十三歳で執権を補佐する連署となり、十八歳の若さで第8代執権に就任。
しかし時宗を待っていたのは、かってない国難であった。
文永十一年(1274)の文永の役と弘安四年(1281)の弘安の役の2度に渡る元軍の侵略攻撃であった。
 御家人以外の武士にも出陣を要請。
元の国使を処刑したり、派兵を計画したり、防塁を構築したりして、又、神風の台風の恩恵もあってこの難局を乗り切った。
その他時宗は腹違いの兄・時輔らの対抗勢力を討ったり、幕府に批判的な日蓮を処刑しようとしたり、専制的な面もあったが、一方禅宗に深く帰依し、文永・弘安の役で亡くなった敵味方の霊を慰める為、円覚寺を創建した。時宗は33歳の若さで亡くなったがその生涯は元寇と言う国難との戦いの生涯であった。
今、時宗は円覚寺の仏日庵の廟所で眠っている。

 
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                           鎌倉円覚寺三門

6月吉川和夫ブログ美術館~南太平洋のバヌアツを描く

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吉川和夫ブログ美術館
2015年06月01日発表の風景画

バヌアツ国、エファテ島の首都ポートヴィラの街から眺めた
”イリキ・リゾート=高級ホテルの客室群”を描きました。
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次の写真は、2015年1月16日~19日の4日間に、
バヌアツ国エファテ島ポートヴィラ(首都)の街から眺めた
”ヴィラ湾に浮かぶイリキ・リゾートの高級ホテル客室群”の風景です。
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次の写真は、2015年1月16日~19日の4日間に撮影した
バヌアツ国首都ポートヴィラのシティセンター街の風景です。

イリキ島(全島がリゾート地)は、
ポートヴィラのシティセンター街の対岸にあります。

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巨大なサイクロンに襲われたバヌアツ

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私は、2015年1月13日に、一人で、東京/成田国際空港を出発し、南太平洋のバヌアツ、サモア、フィジーの3ヶ国で、15日間の旅をし、2015年1月26日に帰国しました。
 
ところが、その1ヶ月半後の3月13日~14日未明にかけて、巨大サイクロン(風速70~80m)が、バヌアツ共和国を襲いました。
 
バヌアツの首都をはじめとし離島までも甚大な被害が出ていることが、新聞・雑誌やテレビ・インターネットで、大きく報道されています。
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歴史

バヌアツの島々には、数千年前にオーストロネシア語族の人々が渡来してきて定住し始めたと考えられている。その最古の遺跡は、約4000年前のものだと推定されている。1452年から1453年にかけて、海底火山クワエ英語版の大噴火が複数回起こり、世界の歴史に大きな影響を与えた。
ヨーロッパ人で最初にこの島を訪れたのは、ポルトガル人のペドロ・フェルナンデス・デ・キロスで、1606年4月27日にサント島に上陸している。ヨーロッパ人による植民が始まったのは、ジェームズ・クックによる調査が行われた18世紀末以降のことである。1774年、クックがこの地域をニューヘブリディーズと命名した。イギリスフランスの間で衝突が繰り返された後、1906年に両国は、ニューヘブリディーズ諸島を共同統治領とすることに合意した。
1960年代、バヌアツの人々は自治と独立を要求し始めたが、英語系とフランス語系の島民が対立し、1974年にフランス語系のタンナ島タンナ共和国として独立を宣言した(フランス軍による島の制圧で終わった)。1975年にはサント島を中心とした島々でナグリアメル連邦として分離独立の宣言も起きた。1980年に入るとバヌアツの独立を求める声が高まったが、タンナ島で再びタフェアン共和国として独立運動が起きた(これはイギリス軍の制圧で分離独立運動は終結した)。8月21日にはエスピリトゥ・サント島のフランス語系住民が独立に反対し分離運動が起き、ベマラナ共和国と名付け分離独立が起きた。
1980年7月30日イギリス連邦加盟の共和国としてバヌアツが独立、フランスは政情不安を理由に最後まで独立に反対の立場であったが、これにより事実上、イギリス・フランスの共同統治下から独立し、大統領を元首とする「バヌアツ共和国」として出発した。独立した同年に親ソ派でメラネシア社会主義を掲げるバヌア・アク党のウォルター・リニが首相に就任。徹底したソ連偏重策を背景に独裁的性格を強めたが、1991年にソ連が崩壊し、ソ連という後ろ盾を失ったウォルター・リニは党内外から批判が高まり、1991年に解任された。その後、総選挙によりフランス語系の穏健諸党連合のカルロが首相に就任、国家連合党と連立政権を成立させた。2006年7月には環境NGO「地球の友」とシンクタンク「新経済財団」が「地球上で最も幸せな国」に選んだ。

南太平洋の島国、バヌアツを描く

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去る2015年1月中旬に、南太平洋の島国、バヌアツ国を訪ねました。首都のあるエファテ島のポート・ヴィラに滞在しました。
そこで、国立博物館を訪問したときに、広大な敷地にあった「二本の巨木」と「住民の休憩所」を描きました。↓
 
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バヌアツの国立博物館前の広場は広大でした。周辺に、南国の島・バヌアツらしい雰囲気を感じ取り写真撮影しました。↓
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南太平洋の島国、バヌアツの人々に出会いました

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2015年1月中旬に、南太平洋の島国、バヌアツを訪れて、住民と交流しました。住民の皆さんを絵に描き、そして写真撮影しました。↓
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キルギス国を放浪旅する

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キルギス国を一人旅しました。去る6月12日に成田空港を出発して、キルギスの首都ビシュケクに4泊しました。
キルギスは中央アジアにあって、古くはシルクロードとして知られています。紀元前8世紀頃は、美しい天山山脈を背景に、遊牧民サカ族が住んでいました。国土は、日本国の約半分です。人口は約540万人(2008年推計)。キルギスは多民族国家です。90余りの民族が共存しています。キルギス人64.9%、ウズベク人13.8%、ロシア人12.5%、ウクライナ人1%などです。
宗教は、キルギス人の多くがイスラム教スンニ派。ほかにロシア正教などがあります。
 
次の写真は、キルギス国の大統領府です。
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次の写真は、キルギスの国立歴史博物館です。
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次の写真は、国立歴史博物館の内部にある” ユルタ ”です。
キルギスの遊牧民の移動式住宅です。
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次の写真は、キルギスの首都ビシュケクにあるオペラ劇場です。
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キルギスの首都ビシュケクにあるオシュ・バザールの出入門です。
中央アジア地域では、最大のマーケットの一つです。
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次の写真は、、キルギス国の首都ビシュケクのドゥボーヴィ公園の近くでで見かけた絵画市場です。数千点の絵画が展示販売されていました。
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次の写真は、キルギスの首都ビシュケクの郊外にあるモスクです。
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次の写真は、キリギスの首都ビシュケクにある「 日本センター 」の玄関です。JICAの人が運営していました。
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次の写真は、キルギスの英雄・マナス王像です。
マナス王は、1000年の昔から語り継いだ英雄叙事詩のヒーロです。
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次の写真は、キルギスの首都ビシュケクのホテルです。
グリーン・シティ・ホテルという英語名のホテルです。
日本センターが推奨している中級ホテルですが、従業員の応対度は優秀でした。清潔度や最新設備などは、超高級ホテル並みの優れたものでした。私の海外旅行の体験における好感度は最高でした。
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