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Channel: 吉川和夫ブログ美術庵=諸国放浪記
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10月吉川和夫美術館~風景・モンゴルの伝統的家屋を描く

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2015年4月下旬、モンゴル国へ行きました。
モンゴル国は、東アジア北部に位置する国家です。
東と南を中華人民共和国(中国)・内モンゴル自治区と、西を中国・新疆ウイグル自治区と、北をロシア連邦とそれぞれ接する内陸国です。


モンゴルの対日関係は極めて良好です。以前は反日感情も見られたが、相撲による交流が盛んになった今日では、国民感情としても日本とは友好的関係が維持され日本より多額のODAが供与されており、日本の中古車も人気である。日本との外交関係は1972年2月24日に樹立された。
2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な対日感情を有する国となっている。
また、兵庫県但東町(現豊岡市但東町)との交流が長く、町内には、日本でも数少ないモンゴルの博物館「日本・モンゴル民族博物館」があり、交流が盛んである。2010年4月1日より、日本国籍者はモンゴル入国に際し、滞在日数が30日以内の場合はビザが免除されることになった。


朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜の直近の横綱4名に加え、高齢での幕内初優勝を達成した旭天鵬など多くの大相撲力士を輩出し、歴代外国人力士の最多輩出国となっている。相撲以外のスポーツではプロボクサーのラクバ・シンが日本で畑山隆則を降しモンゴル初の世界チャンピオンに輝き、その後日本のジムを拠点としていた時期もあった。

自衛隊との交流も進展しており、防衛大学校への留学生派遣や防衛省主催の各種セミナーへの参加を続けているほか、2004年には防衛大学校校長がモンゴルを公式訪問している。

 
2015年10月01日発表の風景画は、
モンゴル国の伝統的、移動式住宅のゲルを描きました。
 
まず、私が宿泊した伝統的、移動式住宅ゲルを描きました。このゲルは、テレルジ国立公園内にあります。
 
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次に、テレルジ国立公園にあるモンゴルの伝統的な移動式家屋ゲル3棟を描きました。
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ゲル1帳は、おおむね夫婦を中心とする1小家族が住むが、遊牧民たちは一般に2~3帳のゲルからなる拡大家族集団(アイル、現代モンゴル語では「仲間」や「村」の意味もある)でまとまって遊牧を行う。
拡大家族はそれぞれの戸長が親子、兄弟などからなる場合が多いが、
地域によっては戸長の友人関係で血縁関係の薄い数家族が集まる場合もある。
同じ地域で遊牧を行う複数のアイルの集合体がいわゆる部族(アイマク)であり、これらが遊牧民の政治単位となるが、現在では解体されており、
現代のモンゴル国ではアイマクは県を指す。19世紀以前のモンゴルにはアイマクに王侯貴族がおり、隷属民の牧夫を抱え、隷属民まで含めゲルが何十何百も集まった大型のゲル集落が存在していた。
これを中世モンゴル語ではクリエン、近世モンゴル語ではフレーといい、
その中央には王侯貴族の住む大型のゲルがあった。このような大型のゲル、および大型のゲルを中心とした遊牧民の宮廷のことをふつうオルドと呼んでおり、モンゴル帝国のハーンたちは非常に大きなゲルをオルドとしていたことが知られる。

現代のモンゴル国の前身となった清朝統治下の外モンゴルでは、
もっとも大きなゲルに住み、もっとも数の多いフレーを従えていたのは
外モンゴルを代表する活仏であるジェブツンダンパ・ホトクトであった。
のちにジェブツンダンパのフレーは遊牧移動をやめて一箇所に定着し、
19世紀には漢民族の商人も住み着く都市に変貌する。
この都市が、現在のモンゴル国の首都ウランバートルの前身であるイフ・フレー(大フレー)である。現在も、ウランバートル市内には固定家屋と並んで庭にゲルを立て、都市内であえてゲルで生活する人も非常に多い。
 
 
 
 
次の写真は、2015年4月下旬に訪問した時に、撮影したものです。
☆テレルジ国立公園で宿泊した伝統的な移動式住宅ゲルの内部です。
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☆テレルジ国立公園内の観光客向けの宿舎・ゲル群です。
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☆テレルジ国立公園内の現地人の住宅と周辺の風景です。
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☆テレルジ国立公園内で働いている母と娘です。
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☆テレルジ国立公園内を駆け巡る乗馬姿の日本人観光客です。
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モンゴルの仏教寺院を描く

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モンゴル国首都ウランバートルにあるガンダン寺院の仏塔を描きました。
仏塔の周辺には、経典を内蔵したマニ車がありました。
この寺院には、チベット仏教の最高指導者、法王のダライ・ラマの写真が飾ってありました。ダライ・ラマは独裁政権で自由を圧迫する中国政権に反目しています。なお、モンゴル国(外蒙古)は、歴史的にも、現在でも、侵略的な中国を嫌っています。内蒙古は中国の支配を受けて自由独立を失っています。

 
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☆次の写真は、ガンダン寺院の境内の風景です。
 
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美術、吉川和夫のプロフィール

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美術、 吉川和夫(キッカワカズオ)のプロフィール

*誕生年:昭和八年(1933年)
  天皇陛下と同じ年齢です。
 
 
*出生地:島根県
  半農半漁の寒村に生まれました
    
 
*現住所:東京都
   郊外の静かな住宅団地に住んでいます。
 
*学歴:慶応義塾大学卒業
   大学は6年間苦悩しながら過ごしました。      
 
*海外諸国放浪:150ヶ国(延べ245ヶ国)
   60歳定年退職後、海外220ヶ国を放浪しました。
   国内は47都道府県を漫遊しました。
 
*職業:高齢漂浪人
   愚作絵画の販売はしていません。
   私は年金を貰って生活しています。    
 
*画歴:弐拾年有余 
   60歳からの趣味悠々の放浪絵描きです。
   小さい時から絵心はありました。     
 
*師匠:我以外皆我師
   皆さんから酷評を受ける我流の絵描きです。
 
*個展:六回開催で打切り 
    超高齢になって、個展開催が面倒になりました。
      
 
*公募美術展:22回出品展示(賞:無)
    美術団体の汎美展や市民展に出品しています。
 
 

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          2013年、北海道の旭川動物園にて ↑
 
 
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          2015年、モンゴルの伝統的家屋にて ↑
 
 
吉川和夫(キッカワカズオ)は、
国の内外を放浪し、感動した様々な風景を絵に描いています。

そして、人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を
絵の中で表現します。

加えて、動物や植物などに対しては、慈しみの心を持って、
生き生きと描写します。

フランスの英雄、ナポレオンを描く

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フランスの英雄=ナポレオン・ボナパルトを描く
 
私が描いた”ヨーロッパ大陸を制覇したナポレオン皇帝 ”
(2015年制作 パステル/水彩 画用紙6号F)
 
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ナポレオン・ボナパルト(1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、革命期のフランスの軍人・政治家である。ナポレオン1世(在位:1804年 - 1814年、1815年)として、フランス第一帝政の皇帝にも即位した。
 
フランス革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を樹立した。
また、戦勝と婚姻政策によって、イギリスとオスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた(これら一連の経過をナポレオン戦争という)が、最終的に敗北して失脚した。
ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、
彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わった。
 
一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。
その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から
「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。軍人、小土地自由農民とプチブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現われた。
以後フランスの人口は伸び悩み、イギリス・ドイツなどに抜かれることとなった。1831年には、フランス軍の夥しい喪失からフランス人からの徴兵は止めて多国籍によるフランス外人部隊が創設されることになった。
 
 
英雄とは、なにか?
 
ナポレオン皇帝、チンギス・カン皇帝、アレキサンダー大王などは
歴史上の英雄と言われていますが、
征服された民族にとっては、極悪人であり、
大悪党たちの首領として憎まれています。
 
 

モンゴルの英雄、チンギ・カン皇帝を描く

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モンゴルの英雄=チンギス・カン
 
私が描いた" ユーラシア大陸に大帝国を築いたチンギス・カン皇帝 ”
(2015年制作 パステル/水彩 画用紙6号F)
 
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チンギス・カン(1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、
モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。
 
大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。

死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神となり、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。
 
このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、
社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生のモンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、崇拝を集めることになった。

中華人民共和国では、1995年に内モンゴル自治区で人権活動家のハダとモンゴル族の若者が集まりチンギス・カンの肖像画を掲げてモンゴルの歌を放吟したが「国家分裂扇動」「スパイ活動」をしたとして逮捕拘禁されている。
 
また、チンギス・カン率いるモンゴル帝国の戦闘ぶりは、「来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」と評されている。
ある日、チンギス・カンは重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。するとチンギスは「違う」と言い、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。(モンゴル帝国史)
 
 
英雄とは、なにか?
 
ナポレオン皇帝、チンギス・カン皇帝、アレキサンダー大王などは歴史上の英雄と言われていますが、
征服された民族にとっては、極悪人であり、
大悪党たちの首領として憎まれています。
 

ギリシャの英雄、アレキサンダー大王を描く

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ギリシャの英雄=アレキサンダー大王

私が描いた" ヘレニズム文化を築いたアレキサンダー大王 ”
(2015年制作 パステル/水彩 画用紙6号F)
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アレクサンドロス3世(紀元前356年7月20日- 紀元前323年6月10日、
在位紀元前336年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王、英語名アレキサンダー大王は、ハンニバル、ガイウス・ユリウス・カエサル、ナポレオンなどの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書やコーラン、シャー・ナーメ、ゾロアスター教など多様な民族の
教典にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に関する名を付ける人は多い。
1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や、1926年 からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。
 
 
 
 


 
〔征服〕
 前4世紀に力を伸ばしてギリシャ全土を従たがえた。
マケドニア王フィリッポス2世の子。アリストテレスを家庭教師として育った。19歳で王位をつぎ,前334年,昔からのギリシャの脅威ペルシャ帝国征服の軍を起こした。
彼の軍事的才能と,密集歩兵隊の力でペルシャ軍を破って小アジアを平定,エジプトも従がえた。前330年にはペルシャ帝国を滅ぼし,さらにインドまで進んだ。
 





[ヘレニズム世界〕 彼は各地に,アレクサンドリアと名づけた多くの都市を建設し,ギリシャ世界とオリエント世界の間で人種や文化の一体化を促ながした。彼の死後,その領土は分裂したが,ローマ帝国の支配まで,経済と文化の繁栄が続いた。 東方に発展したギリシャ文化は,ヘレニズム文化と呼ばれ、インドをへて中国や日本にも影響をおよぼした。

 
 
 
英雄とは、なにか?
ナポレオン皇帝、チンギス・カン皇帝、アレキサンダー大王などは歴史上の英雄と言われていますが、
征服された民族にとっては、極悪人であり、
大悪党たちの首領として憎まれています。

汎美・秋季展 2015 開催中です

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ただいま、上野公園にある東京都立美術館で、
秋季の汎美展を次のとおり開催中です。
 
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私の出品作品です。↓
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 展示場の風景については、10月9日に発表します。
 
 
 

汎美・秋季展の会場風景を撮影する

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10月8日(木)、上野公園の東京都立美術館で、開催中の「 汎美・秋季展 」展覧会場に入場しました。素晴らしい絵画・アートを、ひとつ、一つを、丁寧に鑑賞しました。
次の写真は、その一部だけを、此処に掲載します。
 
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次の絵画作品が、吉川和夫が描いた作品
「 12匹の動物たち 」です。 ↓
 
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11月吉川和夫美術館、動物エルクを描く

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11月吉川和夫美術館の動物画は、アメリカ大陸動物のアメリカアカシカ と言われる” エルク ”を描きました。
 
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 2015年制作 水彩/パステル 画用紙 6号F 410 x 318mm
 
 
アメリカアカシカ・ワピチ・キジリジカまたは北米名エルク
(亜米利加赤鹿、黄尻鹿・学名 Cervus canadensis)は、
北アメリカ大陸から東北アジアにかけて生息する大型のシカ。
 
北アメリカ以外の地域では、エルク(elk,elg)とはヘラジカのことを意味する。ヨーロッパのアカシカよりも大きなアメリカアカシカを北アメリカで初めて見たヨーロッパ人の探検家がこれをヘラジカの一種と誤解し、エルクと呼んだために北米では「エルク」という呼称が一般化した。

「ワピチ(ワピティ)」とは、アメリカインディアンのショーニー族の言葉(Shawnee)で「白い尻」を意味するワーピティ(waapiti)に由来する呼称である。
 
概要:
 ワピチはシカの中ではヘラジカについで2番目に体が大きい種である。
雄は雌よりも1.2倍ほど大きい。アメリカアカシカのルーズヴェルトエルク・レースでは、雄は平均で、体重315kg程度、肩の高さ1.5m、全長2.4m程度である(雌は順に225kg・1.3m・2m程度)。

雄のみが滑らかな角(つの)を持つ。
角は毎年春に伸び始め、冬の終わりに抜け落ちる。
他のシカと同様に草や樹木の葉・樹皮を食べる草食動物である。
増え過ぎた場合、地域の植生を破壊し、環境問題を引き起こす原因になる。また、ニュージーランドやアルゼンチンには人為的に導入されており、一部では外来種として他の生物に圧力をかけるものとして問題視されている。
 
アメリカアカシカは、捕食圧が少なければ自然状態で15年ほど生きる。
平均的な寿命は10-13年ほどであり、飼育下では20年ほど生きると考えられている。
北アメリカでは、ヒト以外に、オオカミ、ピューマが成獣の天敵であり、
ヒグマもときおり本種を捕食する他、コヨーテとオオヤマネコが幼獣を捕食する。
 
 
次の写真は、アカシカです。
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11月吉川和夫美術館、人物・豊臣秀吉像を描く

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2015年11月01日発表の人物画
天下統一の偉業を成し遂げた”戦国一の出世頭=豊臣秀吉像 ”を描きました。
 
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2015年制作 パステル/水彩 画用紙 6号F410x318mm
 
 
豊臣秀吉、または羽柴 秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての
武将、大名、天下人、関白、太閤。三英傑の一人。

初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。
本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。
 
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。
当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信忠の遺児・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。

天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。
秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。
慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。
 
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ功名立志伝が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
 

次の写真は、名古屋市中村区にある”豊公誕生之地”です。
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11月吉川和夫美術館、キルギス共和国の風景を描く

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2015年6月、キルギス共和国へ行きました。

キルギス共和国、通称キルギスは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和制国家である。
首都はビシュケク(旧名フルンゼ)。かつての正式国名はキルギスタンであり、改称以降も別称として公式に認められている。
 
北から時計回りにカザフスタン、中華人民共和国、タジキスタン、ウズベキスタンと国境を接する。
ソビエト連邦から独立したウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンとともに中央アジアを形成し、独立国家共同体 (CIS) 加盟国である。
 
 

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    < 2015年10月27日、「テレビ朝日ニュース」 >
中央アジアを歴訪中の安倍総理大臣は、歴代総理として初めてキルギスを訪問しました。
道路整備など140億円規模の支援を行うことで合意しました。
 
 安倍総理大臣:「貴国訪問に民間企業・団体のトップが同行しているわけでございまして。さらに、具体的な成果が次々と生み出されていくことを期待したいと思います」

  アタムバエフ大統領との首脳会談で、安倍総理は、新たなODA(政府開発援助)案件として、幹線道路の整備や空港での指紋認証機材の導入などインフラ関連で140億円規模の支援を表明しました。また、中央アジアで最も民主的な体制づくりが進むキルギスの議会制民主主義定着のため、引き続き協力することを約束しました。
 
2015年11月01日発表の風景画
 
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↑ キルギスの首都ビシュケクにある国立歴史博物館を描きました。
 

☆次の写真は、首都ビシュケクの中心部にある大統領府の建物
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☆次の写真は、首都ビシュケクの中心部にある国立歴史博物館です。
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☆次の写真は、首都ビシュケクの中心部にある国立歴史博物館の玄関口から、前方を撮影したものです。かって此の博物館前には大きなレーニン像が建てられていた。
しかし、2003年に博物館裏に移され、今は”自由の女神像”が広場を見下ろしている。
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☆次の写真は、首都ビシュケクの中心部にある国立オペラ劇場です。
 
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キルギス共和国のモスクを描く

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キルギス共和国のイスラム教寺院のモスクを描きました。 ↓
 
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次の写真は、キルギス共和国の首都ビシュケク郊外にあるモスクです。↓
 
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キルギス共和国の民族
2009年の調査によると、キルギス人が70.9%、ウズベク人が14.3%、ロシア人が7.8%、その他が7%であり、その他にはドンガン人、ウイグル人、タジク人、トルコ人、カザフ人、タタール人、ウクライナ人、高麗人、アゼルバイジャン人などが含まれる多民族国家である。

地域による民族分布差も大きく、首都ビシュケクと周辺のチュイ州やイシク・クル州のカラコルを中心とした東部にはロシア人、ウクライナ人などスラブ系住民が多く、オシ州やジャララバード州、バトケン州などの西部、南部にはウズベク人やタジク人が、中国国境付近にはドンガン人やウイグル人が住む。
一方、ナルイン州の住民はほとんどがキルギス人である。
 独立前の1989年にはロシア人は全人口の21.5%を占めていたが、
独立後国外流出が続き、現在[いつ?]は7.8%にまでに減少した。
 
 
 

言語
 キルギス語が国家語、ロシア語が公用語とされている (憲法第10条第1項、第2項)。
1999年の国勢調査によると、キルギス語が65.2%、ウズベク語が14.7%、ロシア語が14.0%と
なっている。ウズベク語はオシ州やジャララバード州を中心にウズベク系住民の間で使われている。
 
ロシア語は独立以降公用語から除外されたウズベキスタンなどと違い、
引き続き公用語に制定されている。これは、国の中枢を占めていたロシア人などのロシア語系住民の国外流出(頭脳流出)を防ぐためであり、現在[いつ?]でも山岳部を除く全土で通用し、教育、ビジネスや政府機関で幅広く使用される。
特に首都ビシュケクとその周辺では多くの住民はロシア語を使って生活しており、キルギス語があまり上手に話せないキルギス人もいる程である。その他、ドンガン語なども使われている。
 
 
宗教は、イスラム教が75%、正教が20%、その他が5%である。
 
 

キルギス共和国のロシア正教の寺院を描く

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キルギス共和国の首都ビシュケクの郊外にあるロシア正教の寺院を描きました。
 
 
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次の写真は、日曜日におけるロシア正教寺院の風景です。
 
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1999年の国勢調査によると、キルギス語が65.2%、ウズベク語が14.7%、ロシア語が14.0%となっている。ウズベク語はオシ州やジャララバード州を中心にウズベク系住民の間で使われている。

ロシア語は独立以降公用語から除外されたウズベキスタンなどと違い、
引き続き公用語に制定されている。これは、国の中枢を占めていたロシア人などのロシア語系住民の国外流出(頭脳流出)を防ぐためであり、現在[いつ?]でも山岳部を除く全土で通用し、教育、ビジネスや政府機関で幅広く使用される。
特に首都ビシュケクとその周辺では多くの住民はロシア語を使って生活しており、キルギス語があまり上手に話せないキルギス人もいる程である。その他、ドンガン語なども使われている。

宗教は、イスラム教が75%、正教が20%、その他が5%である。

キルギス共和国のロシア系老女を描く

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キルギス共和国は、多民族国家です。
その中でも、ロシア人は、民族構成の14%を占めています。
 
キルギス人のロシア系の美しい老女の後ろ姿を描きました。↓
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次の写真は、キルギスの人々を撮影しました。↓
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キルギス共和国の日本センター

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キルギス共和国の首都ビシュケクの中心地に、
JICAが運営する「日本センター」がありました。
 
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キルギスの首都ビシュケクにも、和食のレストランがあります。
このレストランの経営者は、「日本センター」で、日本語を学んだ人で、
キルギスの成功した経営者の一人になっています。
 
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次の写真は、首都ビシュケクにある主要鉄道駅です。
しかし、乗降の鉄道利用客は少なくて閑散としていました。
 
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吉川和夫の自画像(その9)

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私の自画像の制作日は、不明ですが、50代の前半の頃に描いたものだと推測しています。
 
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吉川和夫の自画像(その10)

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私の自画像の制作日は不明ですが、50代中頃に描いたものだと推測します。↓
 
 
 
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美術、吉川和夫のプロフィール

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美術 吉川和夫(キッカワ カズオ)のプロフィール
 
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吉川和夫(キッカワ カズオ)は、国の内外を放浪し、感動した様々な風景を絵に描いています。そして、人生という旅で出会った、古今東西の人物の姿や感情を絵の中で表現します。加えて、動物や植物などに対しては、慈しみ心を持って、生き生きと描写します。
 
 
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*誕生年:昭和八年(1933年)
   いまや、82歳になりました。
 
 
*出生地:島根県    
   日本海に面した半農半漁の寒村に生まれました。
 
 
*現住所:東京都
  武蔵野の静かな町に住んでいます。
 
 
 
*学歴:慶応義塾大学卒業
  6年間、心身ともに苦悶しながらの青春でした。
 
 
 
 
*海外諸国放浪:150ヶ国(延べ245ヶ国)
  苦闘の過去を忘れて、新たな空間と時間を享受しています。
 



*職業:放浪悠遊人

  公的年金を貰って生活しています。
 
 
 
 
*画歴:弐拾年有余
  絵を描く事が、ただ好きなのです。
 
 
 
 
*師匠:我以外皆我師
  独学ですから、まさに自分流です。
 
 
  
*個展:六回開催で打切り
  来館者・来客に気を使う個展は、嫌になりました。
 
 
 
*公募美術展:23回出品展示(賞:無)
 少年時代から今日まで、すべての分野において
 名誉ある「賞」なるものを 貰った記憶がありません。
 
 

(備考) 吉川和夫の美術作品は、頒布・販売しておりません。
 
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【  I have a dream ・・・  】

私には、夢があります
夢は、時どき、変わります
夢は、夢です。

私の棲家は、旅にあります
流れ行く時間も、人生も
すべては、心の旅のようなものです。

私の旅は、流れゆく雲のように
終わりは本当の終わりでなく
新たな旅の始まりです。

私の人生は、未来の中にあり
夢に向かって歩む旅です
それは、希望の旅です。

(2013年8月15日) 
 

12月吉川和夫ブログ美術館~アメリカ大陸のミュールジカを描く

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2015年12月01日発表の動物画は、
アメリカ大陸動物の” ミュールジカ ”を描きました。
 
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2015年制作 水彩/パステル 画用紙 6号F 410 x 318mm
 
 ミュールジカは、北アメリカ西部に普通に見られるシカである。耳がラバ(ミュール)のそれに似ているので、この名前がある。尻尾がすべて黒いオグロジカを含む数種類の亜種があり、近縁のオグロジカとは違って、ミズリー川より西の地域、特にロッキー山脈付近に分布する。
 


特徴:
オジロジカ属の中では最大種で、肩高1-1.1m、体長2mにもなる。
大人のオスは体重が68kgから140kg、
一方メスは平均して57kgから79kgで、
大きなオスになると230kgにもなる。
オジロジカのように、
同じ地域内で際立った体格差が見られることはない。
 オジロジカとの外見上の大きな違いは、耳の大きさ、尻尾の色、
そしてオスの角の形である。
体の大きさの違いで見分けられることも多い。
また、ミュールジカの尻尾は先端が黒いが、オジロジカは黒くない。
角も、ミュールジカは複数の枝に分かれ、
年を重ねるごとにフォーク状に横に張るが、
オジロジカの角は、1本の角から枝分かれする。
 角は毎年、交尾期の後に抜け落ちるが、
春にはすぐに新しいものが生えて来る。
抜け落ちるのは2月半ばが一般的だが、地域差がある。
 
 
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12月吉川和夫ブログ美術館~茶聖・千利休像を描く

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2015年12月01日発表の人物画

茶道の歴史で、わび茶を完成させた、
茶聖と称せられる”千利休像 ”を描きました。
 
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2015年制作 パステル/水彩 画用紙 6号F
 
 
千利休
(大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。
 
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。
天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あり定まっていない。
 
 
 
 死の原因 
利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」とする説が知られているが、その他にも様々な説があり、詳しくは分かっていない。また、秀吉は蟄居を命じただけで死罪までは企図していなかったが、
利休が一切の弁明をしなかったために切腹を命じたとする説もある。
 
*安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれたという説。
 
*天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使ったという説。
 
*秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説。
 
*秀吉は元々わび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で「大名茶」とよばれる茶を点てた頃から利休は密かに不満を募らせていた。さらにこの後、信楽焼の茶碗を作っている事を聞いて憤慨した秀吉から、その茶碗を処分するよう命じられたが、聞く耳を持たなかったために彼の逆鱗に触れたという説。
*秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉にその事を恨まれたという説。

*豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれたという説。
 
*秀吉の朝鮮出兵を批判したという説。
 *権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説。

*交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説。
 
 *利休が修行していた南宗寺は徳川家康と繋がりがあり、家康の間者として茶湯の中に毒を入れて、茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説。



次の写真は、千利休一族の墓”です。↓
 
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